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2013.1旧豊島区立千川小学校見学会「庇」とモダンデザイン

中野たてもの応援団
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3階建ての校庭に面してきれいな立面をもつ旧豊島区立千川小学校[昭和40年の竣工][fig.01-06]。
どこにでもありそうな小学校ですが、どこにでもある重要なものが建物上部に廻る「庇」です。
この庇は壁面を雨から保護し、長持ちさせるための重要な要素。庇がなくて今一番困っていそうなのは現在の東京都庁でしょうか?
今回の見学会の感想を団員で、日本大学大学院安樂が少し長いですが、書かせていただきました。

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庇は雨が多く、湿潤な気候である日本で、建築を語る上では重要な要素。それは近代的なオフィスビルでも継承されてきました。その代表は全国各地の主要都市に建つ中央郵便局の建築。東京では東京中央郵便局[fig.07](吉田鉄郎設計、竣工1933[昭和8]年)ですが、その表面のみしか残っていませんので、「逓信博物館(小坂秀雄設計、竣工1964[昭和39]年)[fig.08](将来再開発が決定)」がよりわかりやすいものとして残っています。既に破壊された大阪中央郵便局[fig.09](吉田鉄郎設計、竣工1939[昭和14]年)がその中でも名作でした。他にも福岡[fig.10](博多・こちらも再開発が決定)はじめ多くの建築がまだ残っています。

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白い箱の建築というのは日本では1920年頃から欧米のモダンデザイン、その中でもドイツの美術・工芸学校「バウハウス」が主導した建築デザインです。それらの建築は欧米ではその多くが鉄筋コンクリートで作られましたが、日本では住宅などは鉄筋コンクリートでつくるのは容易ではなく、その多くは木造で建てられたものがほとんどでした。その代表作品は東京ではどちらもバウハウスで留学経験のあった山脇巌設計の「三岸アトリエ」[fig.11](竣工1934[昭和9]年)と土浦亀城設計「土浦亀城邸」[fig.12](竣工1935[昭和10]年)です。「三岸アトリエ」は木製サッシュにガラスの壁面に螺旋階段をもつまさにモダンデザインの理想を追求した庇のない作品。一方の「土浦亀城邸」は庇があり、こちらは今でも竣工時のスチールサッシュが現在でも保たれています。理想か、現実か、この二つの作品は日本のモダニズム住宅において重要な作品であることは間違いありません。ただ現在はそのどちらも危機的な状況です。

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話は戻りますが、ではなぜ戦前に日本に入ってきた建築デザインが昭和の40年代の小学校建築にまで継承され続けたのか。それはバウハウスの建築が当初からその建物に必要な用途に最適なプランを追求する機能主義と、それらを効率よく生産するという合理主義を上にたっていたからで、そのデザインは当時の若い建築家だけの一時的な熱狂でおわることなく、全国の公共施設の設計を主に行う営繕部の所員までにも浸透し、戦後も病院のように日進月歩の如くその中身が変化するものと異なり、授業体系が大きく変化することがなかった小学校で長年引き継がれたのでしょう。

ただその小学校も学校の授業形態の変化や、そもそもの学童数の減少により、廃校が相次いでいます。千川小学校も既に廃校から10年が過ぎようとしています。廃校時に一年生だった生徒も卒業し、かつての卒業生もいなくなる時まで地域施設としておいておく、これは近年の建築物の壊し方でもっとも問題で、大阪中央郵便局や丸ノ内の三信ビルのように解体後、多目的広場と称して人々の記憶が過ぎ去る時まで建物を放置するなどしてから再開発へ至る手法です。

建築は社会をはじめ、都市や人々の記憶の器です。
その歴史の器を短期的な見積で失い続ける日本には、ただ借金が残るだけではないか。日本はギリシャのようになるのではないか。これは経済の話もありますが、建築のどれだけ歴史が残っているかという話です。ギリシャにはパルテノンとアクロポリスしか歴史的な建築はありません。
日本もガラスで覆われたビルか、狭小の建て売り住宅ばかりの「ギリシャ」のような国に自らなろうとしているのか。そう思われてなりません。
(文・日本大学大学院建築学専攻修士1年 安樂駿作)



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